この事について、中野民夫さんは「ファシリテーション革命(岩波アクティブ新書)」野中で、「ファシリテーター8か条」のその1として、こう書かれています。
「フラット現れふらっと去る。オイラは脇役、縁の下の力持ち〜参加者が主体の学びの場、よい体験が残っても、ファシリテーターのことは忘れられるくらいがいい、ちょっと寂しいけど」。そして、本文中では、ある時に武蔵野市で行ったワークショップの参加者さんの言葉を紹介しています。それは「今日体験した様々なことは、きっと今後も何度も何度も思い出すことだろう。だけど、中野さんのことはたぶん思い出さないと思う。そこまで存在感を消すのはすごい」。
僕の言う「ファシリテーター滅びの美学」はこれに近い物で、「ファシリテーターは腕が良ければよいほど、存在が不要になってしまう」というジレンマです。ファシリテーターは「促進する人」「触媒」のようなもので、ファシリテーターいなくても、上手く対話が進んでいくのが理想です。つまり、働けば働くほど、必要ではなくなっていく。これを「ファシリテーター滅びの美学」と呼んでいます。
どうしても最初のうち、ファシリテーターを拝命すると、議論を仕切ろう仕切ろうとして、発言が多くなってしまったりします。また、自分の想定を人に押し付けてしまうこともありがちです。
すべての人は、全員違うコンテクスト(言葉の意味とでもとらえましょう)を持っています。目の見える人にとっての「携帯電話」と目の見えない人にとっての「携帯電話」というものは、おそらく自分の中に占める大きさや、意味合いが大きく違うと思います。それを、同じ「携帯電話」という言葉で表現して対話をするときに、コンフリクトが生じてしまう可能性があります。誰もが違う。
また、どうしても意見が出ないと困ってしまったり、「○○さん、どうですか」と必要以上にふってしまう場合もあると思います。個人的には指名発言は最小限にしたいと思っています。沈黙は沈黙で受け止めることも大切ではないでしょうか。
ファシリテーション革命 (岩波アクティブ新書)
中野 民夫 (単行本 - 2003/4/5)
アマゾンにリンクしています。中野民夫さんに敬意をこめて。ファンです(笑)
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